第7話:酒造メーカー時代

 日本酒メーカーで私はいくつかの貴重な経験をします。

 その経験が今の私を形作っているのだとすると、そのどれもが重要な出来事

 だったように思えてしまうので、人生とは不思議なものです。

 ここでは、いくつかそんな話をご紹介させていただければと思います。

 

 まず、大学卒業後、私は西宮の本社にある食品飲料部という部署に配属され

 ます。この部署では輸入ワインとか奈良漬を売っていました。

 入社初日の一発目にいきなり55歳くらいのおっさんに

 「通勤時のかばんが良すぎる」といちゃもんをつけられます。

 まあイギリスで買った茶色の真四角の本革のスーツケースだったので、今か

 ら思うとちょっとイキっていたのですが、無視っすね、おっさん無視。

 さらに入社1年目にいきなり労働組合の本社第一支部の支部長をさせられます。

 今思うと本社の社員さんたちのちょっとしたいやがらせのように、

 無理やり面倒な役をやらされたのかもしれません。

 毎月、何曜日かの夕方に組合のメンバーが集まって社内の労働改善に向けて

 いろいろ話をしていました。

 翌年の休日の案や来期の定期昇給の額や、ボーナスの割合などです。

 徐々に悪くなる会社の業績に対する労働組合の無力さを痛感しました。

 

 入社2年目に長崎に転勤になります。

 旅立つ日、空港には休日にも関わらず食品飲料部の社員が全員見送りにきて

 くれてました。当時はまだそんな時代でした。

 (そして私もこの頃はまだ平気でがんがん飛行機にのってました)

 24歳~27歳までの四年間、長崎で過ごします。

 当時の私は今では想像できないくらい、テキトーな若者でした。

 まず、日本酒自体が私が思っているより斜陽産業バリバリで、毎年毎年売り

 上げが落ちていき、会社もその状況に対する戦略もなく無策で、ほぼ精神論

 で、営業マンに「毎日酒屋を30件まわって注文をとってこい」しか言われて

 いませんでした。

 「数字が悪いのは酒屋をまわる回数が少ないからだ」と言われていましたが

 当然、そんなはずでもない事も分かっているけど、それに対する特に対案も

 なく、毎日少しずつ少しずつモチベーションが下がり続ける毎日を過ごして

 いました。ただ食べるためだけに。

 だから私は、斜陽産業で仕方なしに働く人の気持ちがよく分かります。

 同時に、その教訓があるので、斜陽産業では二度と働きたくないと強く思う

 のです。

 

 次号は長崎でのイケてない毎日な話です。

 

(次号につづく。。。)