第8話:激しかった長崎時代

 日本酒メーカー入社2年目、24歳の私は営業職として長崎に転勤の辞令が出ます。

 

 当時、会社にとって長崎は北海道に次ぐドル箱で、長崎県全域を4人の営業

 マンでカバーしていました。

 内2人は福岡でもう一人は諫早(いさはやと読みます)に住んでいたせいで

 実質、朝に長崎市内にある営業所に出勤するのは私しかいませんでした。

 そんな長崎営業所も2年目には経費削減の影響で撤退。当時私が住んでいた

 家が実質の事務所のようになりました。

 右も左も分からない24歳にいきなり長崎に住ませて一人で仕事させるOJT。

 すごいOJTです。

 そんな私にもメンターと呼べるのかどうなのか分かりませんが、65歳くらい

 の嘱託おじいちゃんが最初の1年だけつきました。

 そのおじいちゃんは当時の大得意先の理事長の親戚で、政治的な意味あいも

 あったのでしょうが、こっちはそんな事情も知らないですし、

 当時の支店長からは、

 「あのじいさんは参考にならないから真似するな。とにかく酒屋をまわれ」

 と言われていました。じいさんほって単独で廻れと。。。

 すごいOJTです。

 さらに悪い事に、本社の本部長からは私の営業中とかにいきなり電話をかけ

 てきて(当時はまだポケベルの公衆電話から折り返しですが・・・)

 「支店長の営業は古い。やみくもに酒屋をまわらず効率の良い営業をしろ」

 と言われたりしてました。

 本社の本部長とその当時の支店長の仲が悪かったのかもしれません。

 これも知らんがな。

 ダブルバインドというかトリプルバインド。

 今でこそ理不尽だなあと振り返って思いますが、時代もあったのかも知れま

 せん。まあ当時の私も今と変わらずこんな性格ですのでその理不尽を普通に

 受け入れ、特に気にする事なく日々営業活動をしていました。

 前月も書いたのですが、当時の私は全くやる気のない営業マンでしたので、

 月の中でも特に忙しくない時期は、夕方早くに家に帰ってセガサターン

 で遊んでました。

 夜中にゲームをやりすぎて、4年間の長崎生活で3回ほど寝坊の為家まで先輩

 に呼びに来てもらい、そのチャイムでやっと起きるという事もありました。

 要するに非常につまらなかったのです。

 活動内容と成果が連動しているように感じられなかったのです。

 やってもやらなくても同じだった(ような気がした)のでやりたくなかった

 のです。。。

 

 次号は長崎編最終回です。

 

(次号につづく。。。)