第24話:初受注

はじめて獲得した案件の事は鮮明に覚えています。
クライアントはマンションデベロッパーさんで、モデルルームに来店したお客様に
HTML形式で、物件の案内メールを送るという案件でした。
私にとってはじめて案件ですが、先様にとってもはじめてのメール配信。
ですので、システムの使用方法を実際に配信するの時に横で教えてほしい。
と言われました。
「承知しました!」
と、言ってはみたものの、HTMLなどよく分かっていません。
設定を完了しメールは配信されたものの、やはりうまく設定出来ておらず、
正しく表示されない文字化けメールを本番で送信してしまう事になりました。
HTMLメールを配信する時には、メタタグを外して配信しないといけなかったのです!
まあ、ここまで書いててもその理屈は全く理解していないのですが。
なんじゃそれみたいな。

会社に帰ったらまあ、当時の田畑副社長にどしかりつけられました。
宝の壺を割ったかの勢いで怒られまして。
「マニュアル読んだんか!」と言われたので、勢いよく
「読んでません!」
と正直に言うと絶句されてたのをすごく覚えていますし、
当時を思い出して今もうっすら手に嫌な汗をかいています。

ちょっとした携帯電話の説明書くらいあるマニュアルは
パラパラとしか読む気になれなかったのです。
当時は。。。

つづく

第23話:ITの会社一年目

ITの会社一年目

入社してすぐに感じたのは、みんな良く働くなあ。という事でした。
入社初日に、「早く帰って良いよ」と言われて会社を出た時間が8時過ぎだった事は
覚えていますが、それ以降は大体10時とか終電近くまで働いていたイメージがあります。
周りもみんな遅かったので、最初のうちは早く帰り辛い。という
感覚がありましたが、慣れてくるとだんだんそれがあたりまえの感じになってました。

この時期に一番覚えている出来事といえば、入社3ヶ月が過ぎた頃でしょうか、
3人の営業会議上、田代営業部長から山下、岩田の両名に対して、
「6ヶ月経って案件が1つも取れなかったからクビやからな。」との宣告がありました。

いわゆる檄ですね、ゲキ。今流行りのパワハラじゃないです。多分。
当時、2人の新人は3ヶ月経っても案件が1つもとれない、まさに給料泥棒だったです。
当時の自分の心境としては素直に、いやー、案件取れないのは流石にまずいなあー。
と言う焦りと、本当に6ヶ月間で案件0なら辞めよう。と思ってました。
会社とかいろんな人に迷惑はかけられませんしね。
当時の会社の役員の方々の心境を想像するに、よく耐えていただけたと思います。
なんか、嫌みとか言われた記憶がありません。(性的)嫌がらせも受けた記憶がないです。

最初に案件を獲得したのは山下でした。

4か月目を過ぎた頃だったでしょうか。
九州にあるテレビ局から契約すると電話で連絡があり、まだ契約書は送られてきてなけど、近々送ってくる予定との事。
二人でお祝いをしました。
会社の裏の居酒屋で、1,000円のちょい飲みセットをごちそうした日は、昨日の事のように覚えています。
それから約16年経ってますが、このクライアントからまだ契約書は送れてきていません。
結局、内諾だけで終了してしまった案件という事だったのです。

いわゆる、ぬか喜びっちゅうやつですね。
私から言わせれば、新手の無銭飲食ですが。

入社5ヶ月目、ついて私の元にも待望の契約書が送られてきました。

第22話:人生 谷あれば谷底あり

前回のブログ更新からちょうど1年が経ってしまいました。
すみません。
ブログを書く事をさぼっていた訳ではないのです。
実はブログを書く理由が急になくなってしまったからなのです。

最初に私がブログを書き始めたのは、佐々木圭一さんの本である
「伝え方が9割」という本を読んだ事に端を発します。

この本の中に、人に何かを伝えたい時、何かをしてほしいときは、
自分の事を理解してもらう事が一番いい。みたいな事が書いてありました。
「なるほど、自分のこれまでの半生を知ってもらえば、うちの会社の社員の
みんなは、俺の言う事聞いてくれるな、これは!」とか思って。。。
多分、そんな単純な話ではないんですが、その時はそう思ったのでしょう。

で、自分のその半生を書いたとして、書いたとしてその伝達方法をどうしようか、
はて?と考えました。
そういう時はやはり自分が今までの経験から手段を選択するものなんでしょうね。
メルマガを選びました。

毎月1通づつ、社員に向けてメルマガを書くのですが、さすがに私の半生だけの
メルマガとか、どう考えても非常にサムすぎるので、会社の他のメンバーに、
「自分だけが知ってる役に立つ話」をテーマに記事を書いてもらい、複数のメンバー
に持ち回りで記事を書いてもらい、1通のメールにして送りだしました。
せっかく書いたものがあるし、WEBにでも載せとくか。みたいな軽い気持ちでこの
ブログにも載せはじめました。

で、ちょうど今から1年前、事件が起きまして。
20人ちょっといた従業員の約半数が一斉に辞めてしまう事になってしまいました。
最終的には8人まで減ってしまうのですが。。。

そうなると、当初の目的どころの話ではなくなりました。
話を聞いてもらえるもらえないの前に、そもそも人おらんやん!
みたいな(笑)
で、メルマガをやめた。という訳だったのです。

あれから約1年が経ってようやく落ち着いてきたので、このあたりの事がらも含め
ブログに載せる事が、なんか面白いんじゃねーかと思ってきたので、
再び少しづつですが、更新しようと思いマウスを取ったわけです。

 

第21話:IT会社への転職

2001年の12月に前職を退職し、3カ月のアパレル勤務を経て、2002年の10月から新しいIT会社で働く事となります。
都合6カ月の無職期間があった訳ですが、その内の3カ月は失業保険をもらいながら生活をしていました。
新しく就職先が決まり、もう二度とこんな大型連休はないのだからという事で失業保険の期間、すべてもらいきる事にしました。
今になって考えたら、我ながらおいおい。っつー感じですね。

久しぶりに社会に復帰しましたが、今までの業界とIT業界のGAPをすごく感じました。
まず、会社のメンバーの年齢が低い!
過去の会社の社長はみんな60歳代なのに、新しい会社の社長は30歳でしかも 私より年が下! 
平均年齢も20代後半だったんじゃないでしょうか。
私の年齢は上から数えて2番目くらいでした。
 
次に驚いたのは、実務で使われる横文字の多さ!
アサイン、モチベーション、パーミッション、オプトイン
なんのこっちゃよー分からん。。。
とはいえ、いちいち驚いてばっかりでも仕事にならんので、ここはとっとと慣れたふりをして、どんどん馴染んでいく方針に自分の中で切り替えました。

私が入社してちょうど12人。
営業部に配属されましたが、同級生の部長以外含め全部で4名でした。
東京の担当者が1名と大阪では私と同期の山下という2名が新しくジョインしたのでした。
山下は私より7歳年が下でしたが、がんばって仕事していました。
ITベンチャーという事もあり、みんな夜遅くまで仕事していましたが、山下は自分の歓迎会の日も、歓迎会を終わってから上司の手伝いをしに会社に戻っていた事を覚えています。

 

(次号につづく。。。)

第20話:無職時代再び(2)

 ある晴れた平日の午後だったと思います。
 JR三ノ宮の北口を出たすぐにある、にしむらコーヒーでIT会社に勤める友人
 と待ち合わせをしました。(前回でご紹介した人です)

 婦人服のECショップを経営したいと考えていた私は、会ってすぐに彼に、
 婦人服をインターネットで販売したい事や、安い服がさらに安く仕入れる
 ルートがある事などを熱く語りました。
 彼は一通りそれらの話を聞いたのか聞いてなかったのか分かりませんが急に
 「今度、ポートタワーの近くでよく知ってるがフリーマーケットやってるん
 で、それで出店せーへんか?」
 と、言い出しました。
 「お、おおん」
 おそらく、驚きと戸惑いでそんな返事をしたように思います。
 「ECは?え?ECは?」と思っていたところ、さらに
 「俺も手伝うから一緒に売ろうぜ」みたいに言われました。
 多分、知り合いの会社からフリマの出店数が少ないからどっかない?とか
 相談されてたのかも知れませんが、前向きに気にしない事にして、
 むしろITのプロがフリマと言うからには、なんか秘訣があるんだろうと信じ
 込み、そのフリマに張り切って出る事にしました。
 当時、時間だけはたっぷりありましたし。

 売るための服は知り合いのメーカーまで車で行き、大量に借りて来ました。
 売れた分だけでいいよー。と言うてくれました。色やサイズが欠けた
 2900円~3900円の商品は一枚500円で仕入れる事ができ、フリマ向きでは
 ありました。
 さらに、うちの実家はマネキン屋ですので、ディスプレイには、ハンガー
 ラックやワゴンなど借りて比較的綺麗にディスプレイしました。

 結構フリマは盛況だったような気がします。
 終わりの時間の1時間前くらいにようやく友人が来て、
 「売れてるか~」
 と言い放った後、
 「岩田、うちの会社で働かんか?」
 と言い出しました。
 ひどく暑かった夏の日の夕方でした。

(次号につづく。。。)

第19話:無職時代再び(1)

 アパレルを辞めてから、無職の期間が4ヶ月くらいあったと思います。
 4歳と2歳の子供を持ちながらの無職はかなりファンキーな感じでしたが、
 実家のマネキン屋のバイトと失業保険でどうにかこうにか暮らしていました。
 次の就職先もなかなか決まらず、ノー天気な日々を過ごしていたように思います。

 さて、遡る事半年前、日本酒の会社を辞める年の暮れ、何人かの友達に
 「会社を辞めました。探さないでください。」と年賀状に書いて送りました。
 私なりのジョークなので大体はスルーされるのですが、ある友達だけは違ってました。
 年明けに彼から電話が掛かってきて、「大丈夫か?飲みに行こか?」と。
 芦屋の宮川沿いのモダンな中華屋へ飲みに行った事を覚えています。
 その時の話では、彼はインターネットの会社で働いている事を知り、自分は
 マネキン屋関連の仕事に就くつもりである事を話しました。
 「困ってたら相談にのるぜ」
 そんな感じの事を言ってもらいその日は別れたのですが、その人こそ
 後のシナジーマーケティング社長 田代正雄氏です。(2017年3月現在)

 話は戻って、アパレルメーカー退職時には加古川にある婦人服メーカーの人と
 仲良くなっていて、服を安く仕入れるルートが出来ていました。
 で、先ほどの友人のインターネットも絡めて
 「あ、そうだ。インターネットで婦人服を売ろう!」
 と、思いつきます。
 2002年の事ですので、ネットショップが黎明期から成長期にさしかかっていた頃の事です。

(次号につづく。。。)

第18話:婦人アパレルメーカーでの学び(2)

 2つ目は、新幹線の乗り継ぎ方法を学びました。
 毎月の出張は、月曜日に出て土曜日に帰ってくる。というロードものでした。
 大阪から出発して東京に着くまでに、得意先が、名古屋、岡崎、浜松、静岡
 に1店舗づつありまして、初日はこれらの店ですべて商談して東京で泊まる
 まで日程を進めます。
 で、どうするのかと言いますと、まずは新大阪から東京までの「乗車券」を
 買うのです。
 実は、この乗車券自体は途中下車が可能なのです。
 で、その次に新大阪から名古屋までの「特急券」を買って乗車します。
 2枚セットです。
 名古屋での商談が終われば、名古屋から岡崎までの特急券を買います。
 でも、乗車券自体は機械に吸い取られておらず、最初に買ったものを利用
 できる。という訳です。
 こうやって途中下車を繰り返し繰り返し、最終東京まで辿り着くのですが、
 なぜこうするのか?というと、この買い方の方が交通費が安くつくから。
 なんだそうです。(当時の情報です。現在は確かめておりません)
 色んなテクニックを考えつく人がいるもんだなあ。と感心したのを覚えて
 います。

 最後は、アパレル業界というものをちょっとだけですが、思い知りました。
 アパレル業界は非常に参入障壁が低い業界です。
 私でも今すぐに「洋服メーカー」をつくる事は可能です。
 確かにクオリティの低いなんちゃってメーカーではありますが、可能です。
 さらに、実際に服を買う人はどんなメーカーの商品なのかとか、そんな事
 ほとんど知らないのです。見えないので気にしない。と言った方が分かり
 やすいでしょうか。
 で、そんな他社との差別化が効きにくいアパレルメーカーはどうやって他社
 と差別化するか。というと、それは「長時間労働」です。
 彼らはそんなに高くない給料で非常にたくさんの時間働きます。
 (そういう傾向が強い業界という意味です。全てではありません)
 私も退職する最終月は、月の休みが3日しかありませんでした。
 まず、土曜日は普通に働きますし、その月にはセールがあったので、日曜が
 それでつぶれ、振替休日なんてもちろんなかったので、休みが少ない少ない。
 そんな環境でみんな働いていました。
 それでも、働いている人々は、何かしらやりたい事などがあって働いている
 のです。
 単純にすごいなあと思っていました。

(次号につづく。。。)

●第17話:婦人アパレルメーカーでの学び(1)

 たった3ヶ月の就業期間ではありましたが、ここでもたくさんの事を学びました。
 やはり環境の違うところに身を置くというのは、何かしらプラスになる事があります。

 1つ目に、委託販売という販売形式を学びました。
 これは、商品を店舗に貸し出す販売手法の事です。
 今まで私が経験してきた商品の販売方法は、得意先から注文を受け、納品し、
 その分の料金を頂戴するというもの。ただそれだけでした。
 ところがこの委託販売というのは、毎月、月初にそれぞれお得意先の店舗に
 マッチした商品を我々メーカーがいくつかピックアップして送りつけ、
 店舗はその月の末になって売れ残った分をメーカーに送り返してきて、その
 売れた差分だけ料金を請求をする。という手法でした。

 店舗としても売れた分だけお金を後で払ったらいいのでリスクが少いのです。
 もちろん店舗も限られたスペースがあるため、店に合わない商品が送られて
 きた時には、即時メーカーに送り返していました。
 そういう時は、「ちゃんと店の意向を理解して!」とお店の人に怒られたり
 もしました。

 委託販売形式での我々メーカーのメリットは、比較的新規顧客が獲得しやす
 い。という事でした。(あくまで比較的ですが)
 先ほど述べたように、店舗側も商品を増やすリスクが少ないためです。
 新規顧客を獲得しろ。と特に会社から言われてはいませんでしたが、2回
 飛び込んだら2店舗とも新規顧客になってもらえました。
 人生初めての飛び込みで、とても緊張しましたがうまくいけました。
 実は、同業他社で仲良くなった先輩から、「あの千葉の店、行ってみたら?」
 とかアドバイスをもらっていた事もうまくいった大きな理由でした。
 そこで気づいたのは、飛び込み営業という非常に獲得の確率が低い手法は、
 予めそのハードルを下げるような仕組みがなければ、効率が悪いな、こりゃ。
 という事でした。

(次号につづく。。。)

第16話:婦人アパレルへの転職

31歳の1月から転職活動をし始めます。
当時はまだ雑誌の時代でした。時代ですね。DODA(デューダ)とか天職雑誌
を買っては、会社に電話していました。今は便利な世の中になりましたね。
同時に、職業安定所に行ってました。
これも時代ですね。今の名称はハローワーク。いい名前。

なんかしら実家の仕事の役に立つ仕事はないかなあと探していた時に、家の
近くにある婦人アパレルのメーカーが出していた、営業マン募集の要項を
ハローワークで見つけます。
電話して面接に行ったら、その場ですぐに合格。
どうも先輩の営業マンが3月で辞めてしまうので1か月で引き継いでほしい。
という、その会社も急ぎの事情があったようです。

めでたく3月からそのメーカーで働きに行く事になりました。
婦人といってもミセスなので40代から60代向けの婦人服で興味も知識もなく
ちんぷんかんぷん。
価格は非常に安く、3,900円とか4,900円とかの商品を中心に販売している
メーカーでした。
メーカーとは言っても、私の採用と同時期にはじめてデザイナー職が会社に
採用されたみたいで、それまでは中国とか韓国でなーんちゃっての流行りの
商品を市場で買ってそれを街の小売店へ販売する会社でした。

面接の時には気付かなかったのですが、やっぱり正式に出勤しだすと何か
こう上手に説明できないのですが、空気がカタイんですよ。
なんか、こう思ったように発言できない雰囲気というか、なんというか。
一言でいうと、ちょっとやばい感じです。そんな感じがしました。

そんな中、衝撃が私を襲います。
入社2日目の事、タタミという自社の服を畳む仕事を任された時なのですが、
その服の中から、「FENDI」フェンディという有名ブランドに似た「PENDI」
ペンディという商品を見つけます。
さらに、「FENDI」のマークは通常アルファベットの「F」の文字が2つ重な
ったマークが特徴的で有名なロゴになっているのですが、この会社には、
「F」と「L」の文字が2つ重なったマークの服をたくさん見つけたのです!
「あの、これは・・・?」ってちょっと聞きにくそうに私が質問すると、
社長が、
「これ、よー売れんねやー」って返事でした。
解説によると、「FENDI」を作るとこれはニセモノで犯罪になるが、
「PENDI」はオリジナル商品なので、セーフなのだそうな。。。
どっかで聞いた事のあるような解説。。。

ちょっと考えましたが、その週の週末には
「会社を辞めたいのですが」と上司に相談していました。
「なんで?」って聞かれたのですが、
「いや、やばそうな会社なので」とも言えず、
「日本酒の販売と違ってて、婦人服の販売はやっぱり自信がありません。」
と、非常にそれっぽい理由をつくって言いました。
すると上司は、「せめて3か月、試用期間だけでもがんばってみ?」
って言われたので、
きっちり3か月の使用期間満了で辞めました。


(次号につづく。。。)

第15話:転職活動

会社を辞めたのが31歳。
当時は「転職するなら20代のうちに」とかって一般的に言われていました。
全然そんな事ないですのにねえ。
今もそういう風潮なのでしょうか。

さて、次の転職先を探すにあたって、やはり実家のマネキン屋の事が頭にありました。
親父に、「いつか末広マネキンを継ぎたい」と告げると、確か
「二世代は食べていけないが、いつかバトンタッチは出来ると思う」みたいな返事をもらった記憶があります。

いずれ親父が引退する時の為に、マネキン屋に役にたつ転職先にしよう。と思い、転職活動を行いました。
しかし、これがよくなかったのです。
おそらく30社くらい受けたのではなかったでしょうか。
結局、志望動機が薄いのです。
景気もよくない時代に突入していたので、マネキン会社の求人はありませんでした。
主にアパレル業界やディスプレイ業界を中心に受けたのですが、
なぜこの業界?なぜこの会社?と聞かれても、本心は
「いずれ継ぐマネキン屋の役にたつ会社に就職しようと思いました。」と、正直に答える事も出来ず。
そうなると、曖昧というかぼんやりした志望動機を答える事となってしまうのです。
そもそもそんなに興味がある業種でもありませんでしたし。。。

単純に私が面接下手だった。というのもあると思います。
今でも記憶しているのは、最終面接で
「岩田さんを採用するとわが社にどんなメリットがありますか?」との質問に、
営業志望の私は、「売り上げ」以外に答えられませんでした。
「それだけですか?」と何回か人事の人に聞かれましたが、どう回答したら
いいか単純に分からなかったのです。
もちろん不採用でした。
さすがに今なら、その質問の意図も含めて分かりますw
実は、転職活動は会社を辞めてから始めた形になりますが、それには事情がありました。
本当は12月に辞めたその年のもう少し早めに退社をする予定にしていたので、
先に少し転職活動をやっておりました。
その中で大手のマネキン会社を受け、内々定をいただいておりました。
その時点で、退社の時期が少し遅れそうなので。と入社時期の延長を申し入れていたので、
てっきりその会社に入社できるつもりでいたのですが、見込みが甘かったのです。
内々定をもらってから実際に私が退職するその9か月の間に、そのマネキン会社の大きな得意先
であった全国スーパーが会社更生法を受け、一気に取引が縮小してしまったとの事件がありました。
世の中の景気が低迷していく時期でもあり、私の周りの業界も大きく潮目が変わりはじめていた時
でもありました。。。

●第14話:さらば酒造メーカー編

酒造メーカーは31歳の歳の年末、12月31日付けで退職しました。
退職のきっかけは、社内でついに指名解雇がはじまった事でした。
これはいよいよ長くは持たないな。と確信しました。
業績の悪い会社というものは社内にいてもその雰囲気で分かるもので、普通
は何か特別な理由がなければ会社は指名解雇なんかしませんし。
しかし、指名された人達もつながりのある会社を転職先として紹介されてて
転職の機会も与えられていたので、ある意味そんなに悲壮感もなかったのか
も知れません。

いざ私の退職が発表されると色んな人が慰留や送別をしてくれました。
慰留してくれた人達は、会社が倒産するなどとみじんも思っていないようで
した。数十年も勤めている会社がそんなに簡単に倒産するなど、イメージで
きなかったのだと思います。
結局、私が退社した翌年の年末に民事再生を受ける事になります。

私にとっていろんな事を勉強できた9年間でした。
その中でも大きな学びは、「斜陽産業で働くとしんどい」という事でした。
その次に入社したIT会社と比較して(えらい転身)すごくよく感じたのです
が、斜陽産業ではどんなにがんばってもがんばっても前年を割れるのです。
これはもう個人の力ではどうする事もできない、精神論とかではない世界
だと気付きました。
(それゆえ、獺祭は本当にすごいなあ、と思います。)

もう一つは、「会社はゴーイングコンサーンが最も大事」という事です。
意味は会社が倒産や廃業をしないように、半永久的に継続していくこと。
です。(ウィキペディア参照)
倒産してしまったら9年間の努力が全て「無」になってしまうのです。
私だけではありません。
全社員の営業や製造や物流や、その全てが「無」になってしますのです。
昔を懐かしむにも、蔵も本社ビルも全てなくなってしまって、今ではその
跡地しか残っていないのです。
その跡地にできたマンションを見た時、想像以上に寂しい感情が沸いてきました。

最後に、以前話をしたかもしれませんがゴルフでの話をします。

当時の大口の得意先の酒屋さん8社を石川県の金沢に1泊2日の旅行にお連れ
するという接待旅行がありまして、私がそのアテンドとして一緒について
行ったのですが、日程にあったゴルフにお客さんをお連れした際、
ゴルフのスタート前に、得意先の一番偉い会長さんに
「寒いなあ」と言われました。
「はい、寒いですねえ」と私が返答するともう一度
「寒いなあ」と言われました。
なぜ、同じ事を2回も言うのか非常に不思議に思い、後でその話を支店長に
すると、
「あほやなあ、それはお前に携帯カイロを買ってこい。って言う事やないか」
と教えてもらいました。つーか、叱られました。
とても勉強になりました。と同時に、接待の道は非常に険しいなあ。と思いました。

第13話:社内営業コンテスト編

平成12年に、会社が急に「社内営業コンテスト」なるものをはじめました。
売り上げも右肩下がりなので、何か起爆剤を。みたいな感じだったのでしょ
うか。今までなかった「報奨金」なるものが出される事になりました。

金額は1位のみ四半期毎に10万円くらい。もうあまりはっきりは覚えていな
いのですが、それくらいだったような気がします。
全国5支店の営業マン総勢25人~30人くらいを対象に、昨年対比をベースと
した予算対比で順位が付けられました。

第一四半期(4~6月)の1位は前回登場した長瀬でした。
確か6月の最終月に、うなるぐらいに卸先に商品を放り込んでなんか賞金を
もらっていました。(その反動により7月は全然売れずに支店長にめっちゃ
怒られてましたが)
彼はその報奨金を結構、豪遊して使いきってたようなイメージがあり、そん
なお金の使い方をうらやましく思っていたような記憶があります。たぶん。

で、第二四半期(7~9月)、第三四半期(10~12月)は両方とも、私が1位
をとりました。
というのも事情があって、この年から和歌山県の大手ディスカウントストア
への納品数が爆発的に伸びたというのがあります。
市場がない(知名度がない為売れる地盤がない)為、かなりの値引きをして
このエリアでのシェアを戦略的に獲得しに行ったのですが、後からこれらの
商品が、他県のまだ知名度があるエリアにどうやら横流しをされていたよう
なのです。
それは売れるはずです。
でも、当時はまだ私も若かったですし、知ったこっちゃないので、ガンガン
値引きしてじゃんじゃん売り飛ばしていました。
(もちろん支店長には許可を得た上て売ってました。)

また、それと同タイミングでコープこうべさんにプライべートブランドが新
規で導入されました。
以前、製造していたメーカーさんが撤退したとかで、非常に政治的な感じで
企画が舞い込んで来て、かなりたまたまな感じで私に売り上げがついた。
という経緯で一切営業力など発揮していないのですが、これもまた売れまし
た。PBなので他のNB商品より力を入れて売ってくれたのです。
ラッキーも実力の内。と言いますし。。。
しかし、この時につくった商品の紙パックのラベルが非常に秀逸で、私が
「こんな感じで徳利と猪口と書いて、商品名をこういれて・・・」と描いた
手書きの下手な絵を基に、イラストレーターさんがそれは味のあるパッケー
ジにしあげてくれました。
今にして思えば1つ取っておけばよかった。
「今宵一献」という名前でした。
自分が企画に携わった商品が売場にならぶ。お客さんの手にとってもらえる。
買って飲んでもらえる。料理に使ってもらえる。。。
メーカーという職業についてよかったと強く思った瞬間でした。

で、報奨金の話に戻りますと、その支払いが遅滞します。
待てど暮せど報奨金はやってきません。
そしてついに支店長に、
「岩田の売上はよかったけど、利益が出てないから報奨金は出ないって営業
本部に言われたわあ。」
と言われてしまいます。

まあ、お金はいいですわ。お金でやってた訳ではないので。
なんかそんな恰好のいい事を本音半分、やせ我慢半分で言ったような記憶が
あります。
その替りに
「平成12年度社内営業ランキング1位」の称号をもらえた事は嬉しかったで
すし、その後の転職活動の際に履歴書に書けるのでよかったです。
いくつかの偶然が重なって得た「栄誉」ではあるものの、「栄誉」というの
もやはり自分への自信に繋がるものなんだなあと感じました。

この時代、一緒に働いてた1つ年上の先輩が厳しくて、
「がんばってるか?」って聞かれて
「はい」って答えたら
「いや、お前はがんばってない。」って言われた。って
長瀬がよくネタにしてました。

(次号につづく。。。)

第12話:大阪ベイブルース編

大阪支店では28歳から31歳まで約4年間働きます。

29歳の頃でしょうか。
長瀬という同い年の営業マンが同じ支店に入社してきました。
会社の業績があまりよくなかった為、採用が積極的に行われず、途中から
若手が支店にまわってこなくなり、ずーっと私が一番年下だったので、
彼のジョインは同い年でもすごく嬉しく、よく一緒にいましたし、仕事が終
わってもしょっちゅう一緒にビリヤードとかカラオケに遊びに行ってました。
ある日彼は私に言います。
「この会社おかしいで。やばいで」と
そこで始めて気づくというか、考えはじめるのです。
「これは、このまま行ったらこの会社は倒産してしまうのではないか。」と
それまでの私はまさに「ゆでがえる」状態にありました。
精神論的に、途中で会社を辞める事が根性がないようなイメージもありまし
たし、そんな事を言いながらもどうせ持ち堪えるんでしょう?的な根拠のな
い安心感もなぜかありました。
彼が来なければ、それに気づきませんでした。
30歳前にしてようやく私も転職を意識し始めました。
私より後に入社した彼は、30歳の春にはもう退職していました。

結局、31歳の12月で退職しますが、決め手となったのは社内で指名解雇が
はじまった事でした。
希望退職ではなく指名解雇です。
これは、さすがにいよいよだなと転職の覚悟を決めた事を覚えています。
それでも社内には、「倒産しない神話」を信じ、良かれと思い私を社内に
引き留めようとしてくれる人もいましたが、会社に愛着がある人ほどその
傾向が強い事に非常に悲しく感じました。
その後会社は、私が辞めた翌年の年末に民事再生となるのでした。

(次号につづく。。。)

【雑感のつぶやき その1】

言い間違いを指摘するのは難しい。

指摘された人の気持ちなんぞを考え出すと、なんか言いづらい。

でも、私が過去に指摘された言い間違いは今だにいくつか覚えていて、感謝をしている。

その時の恥ずかしさと同時に、誰に指摘されたかもセットで覚えている。

ここまでまとめてワンパック、非常に複雑な大人心だ。

私の場合は、以下の2つ覚えている。

 

1.「風前の灯火(ともしび)」を「空前の灯火」と間違い。

2.「敬称・略」を「敬・省略」と間違い。

 

特に2番目などは秀逸で、区切りの中黒は大人になっても難しい。

というか、特に外来語はそもそも知らんがな的な例が多い。

例えば

 

1.「プエル・トリコ」ではなく正しくは「プエルト・リコ」

 

スペイン語で「美しい港」の意味らしく、たしかに「プエルト」は英語の「ポート」っぽいのはぽいですわねえ。と。

さらに

 

2.「キリマンジャロ」は正しくは「キリマ・ンジャロ」

 

「キリマ」はスワヒリ語で「山」、「ンジャロ」はチャガ語で「白さ」の意味だそう。

チャガ語って言われましても。。。

世界には「ン」から始める言語がある事を知った時、改めて世界の広さを知りました。

(ストリートビューでクロアチアにバーチャル海外旅行に行った時にも同じような感覚になりました)

 

まあ、「マクベ」も正しくは「マ・クベ」ですしね。

と、いつものガンダムネタで〆てみる。

第11話:大阪での仕事

 大阪支店では28歳から31歳まで約4年間働きます。

 

 私の一番大きな得意先である酒屋さん(というか食品センター)は大阪の

 中央市場のそばにあった為、その中央市場に食材などを買いにくる飲食店の

 人を対象にしており、そんな理由で朝の6時から17時までがお店があいている時間でした。

 「朝売り」といって、我々メーカーはそんな飲食店オーナーに対して、朝の

 6時からそのお店の前に日本酒を並べて試飲販売をします。

 我々の会社以外にいろんなメーカーさんが実施するので、我々の順番は

 何か月に1回の実施となっていたのですが、非常にありがたい事に年末の

 一番売れる時期に限っては当社限定でその「朝売り」をやらせてもらっていました。

 ですので、私は大阪支店にいる時は、12月29日に会社の年末で業務が終わる

 と、12月30日、31日は、こちらの店の前で日本酒を売り、12月31日の17時に

 無事、その年の仕事が終わる。というサイクルで働いていました。

 

 朝の6時には(当時住んでいた)西宮から大阪の生野に到着しておかなければ

 ならないので、前日から営業車を家の近くで路駐(当時はOK)しておき、朝の

 5時に起きて高速を超高速でぶっ飛ばして到着させていました。

 冬に車に乗ろうとすると、大抵フロントガラスが凍結しています。

 とっとと家を出発しないと6時には間に合いません。

 車のウォッシュをかけるどころではフロントガラスの氷は融かないのです。

 そんな時はどうするといいと思います?

 

 そういう時は近くの自販機でHOTのお茶を買って融かすといいと学びました。

 瞬殺ですな。

 

 酔っぱらって電車の線路に落ちたのもこの頃です。

 その年は、得意先の卸が合併をして営業マンが倍くらいに増えていらして、

 その会社の新年会に参加した時に、返杯の数がいつもの倍であったため、

 お店を出たらふらふらでそっから記憶がなくなっていました。

 激痛で気が付いたら、線路の上に落ちていました。

 酔っていたので、自力でプラットフォームまで上がる事ができず、二人の人

 に引き上げてもらいました。

 今考えると、ちょっとゾッとします。。。

 それからは記憶がなくなるまでお酒を飲むことはなくなりました。

 

 (返杯とは、お猪口に注いだお酒を返していただくこと。全員注ぎにまわ

 る必要があり、全員からお酒を返して飲む必要があります。)

 

(次号につづく。。。)

第10話:大阪支店への転勤の巻

 23歳から4年間の長崎赴任を終え、大阪支店に事例が出た為、大阪に戻って来ました。

 毎年、会社からの転勤希望地調査では「札幌支店」と書き続けましたが

 結局なんの参考にもならずに大阪へ転勤になりました。

 ここで約4年間務め、酒造メーカーを退職する事になります。

 

 ここでの私の得意先になる大阪の地場の卸屋さんの方々は個性的な人が多く非常に苦労しました。

 みな40代とかの年上の人ばかりで且つ、くせが強かった為、苦手でした。

 「神戸の人間は商売が下手やなあ」とか普通に私に対する苦言などを浴びせられていました。

 ある日、支店長に

 「私の得意先は年上ばっかりで仕事が上手に出来ないので配置を転換して

 ほしい」とお願いすると

 「取引をしている向こうの人は、こちらの年齢に応じてその量を決めている

 訳ではないので、年齢は関係ない」とばっさりやられました。

 確かにその通りだなあと思いました。

 

 大阪は大阪で、私にとってたくさんの勉強になりました。

 上司である支店長からは「1つ上の役職の仕事をしなさい」と教わりました。

 先輩の課長からは、「給料分以上の仕事したら損やで」と教わりました。

 そんなシニカルな課長も、私の在任中に転勤を経て支店長で再び大阪支店に

 戻って来た時にはすっかり言う事が変わっていて、

 「もっとしっかり売ってこい」とか言う人になっていました。

 立場が変われば言う事も変わるんだなあ と学びましたが、まあそんなもん

 だわな。と思って妙に納得していました。

 

 支店長には非常にかわいがってもらったのですが、営業の数字に関しては

 厳しい人でした。(まあ全ての支店長がそうだったのですが。)

 毎月、数字の達成が困難な予算の立て方だったのですが、

 ある月の25日くらいになって、

 「支店長、今月の数字の達成が厳しい状況です」って相談したら、

 「25日にもなってそんなん言われてもどないもこないもならへんがな」

 って怒られました。(↑↑一言一句そのままです)

 

 ですので、また別の月の15日くらいに、

 「支店長、今月の数字の達成が厳しい状況です」って相談したら、

 「まだ15日もあるやないか!売ってこい!」

 って怒られました。

 

 まあ、何日に相談しても結局怒られるんやなあ。ってこれも大体想像通り

 な感じでした。

第9話:さよなら長崎

長崎は、土地柄か戦争の話をよく聞きました。
当時はちょうど終戦後50年で、まだ戦争を体験した方もかなりいたので、
そんな機会に恵まれました。原爆の話もよく聞きました。

当時23歳くらいの私は、73歳の酒屋さんの社長にえらく気にいられ可愛がられました。
その社長さんには子供がいなかったので、私は孫のような感じだったのだと思います。
戦争の話をたくさん聞かせてもらいました。
長崎に原爆が落ちて、戦闘機のパイロットだった社長がその時に居た東京か
ら長崎まで帰ってきたので、広島と長崎の2つの原爆手帳を持っているとか。
たくさんの死線を越えてきたのだと思います。
結局、その社長は私が出会ったその時は既に末期がんだったので、その3年後
に亡くなってしまいます。
私の結婚式に出たいとおっしゃってたので、招待状を出しましたが、すでに
体調が悪くなってらした為それもかなわず、私の父親と一緒に入院していた
長崎の病院に見舞いに行った事を覚えています。

私の今でも大事な同期は長崎の酒屋さんの息子だったので、そのお父さんに
も非常によくしてもらいました。(当時の営業先になります)
売れ残りの日本酒を持っていくと、立ち飲み用に必ず買ってくれてました。
毎回毎回、そこにしかお願いに行かないので、ある時断られます。
後にその息子からは「岩田の為にならんので断った」と聞かされ、その恩を
ありがたく感じました。
そのおやじさんも、私の赴任4年目のゴールデンウィークに亡くなってしま
います。
脳溢血でした。
病院に運ばれた後、一度持ち直したので安心してしまいお見舞いに行かなか
ったのですが、その2日後容体が急変し、結局最期は会えず仕舞でした。
心の底から後悔しました。
それ以降、誰か入院したら断られてもお見舞いに行くようにしています。

23歳~27歳までの若い頃を過ごした長崎は私にとって第二の故郷です。
そんな頃に読んでいた漫画「企業戦士YAMAZAKI」の一説がすごく好きでした。

「古いものはただ古いというその事だけで
とりあえず否定しなければならない
そうでなければ若者にはもう…
なにもすべき事が残されていない事になってしまう―」

当時の経験不足で役にたてていない自分へのもどかしさや、その時の状況な
どもあり、この漫画のセリフに強く共感し自らを奮いたたせていました。
今でも若い人はみな、このような気概で臨んだほうがいいと思っています。

当時、常務に、「岩田は歳とったらどうなりたい?」と聞かれて
「うちは同族会社なので社長にはなれないとしても役員にはなりたいです」
と答えた時、
「わはははははは。」 と大笑いされたあとに
「その気持ちは尊いな」 と言われました。
当時はよく意味が分かりませんでしたが今ではその意味がよく分かります。
このやりとりはあれから20年経った今でも覚えています。
今、ワンダークエストには「副社長になる」と宣言してくれている若手社員(?)
がいますが、その気持ちは非常に尊いと思っています。

 

第8話:激しかった長崎時代

 日本酒メーカー入社2年目、24歳の私は営業職として長崎に転勤の辞令が出ます。

 

 当時、会社にとって長崎は北海道に次ぐドル箱で、長崎県全域を4人の営業

 マンでカバーしていました。

 内2人は福岡でもう一人は諫早(いさはやと読みます)に住んでいたせいで

 実質、朝に長崎市内にある営業所に出勤するのは私しかいませんでした。

 そんな長崎営業所も2年目には経費削減の影響で撤退。当時私が住んでいた

 家が実質の事務所のようになりました。

 右も左も分からない24歳にいきなり長崎に住ませて一人で仕事させるOJT。

 すごいOJTです。

 そんな私にもメンターと呼べるのかどうなのか分かりませんが、65歳くらい

 の嘱託おじいちゃんが最初の1年だけつきました。

 そのおじいちゃんは当時の大得意先の理事長の親戚で、政治的な意味あいも

 あったのでしょうが、こっちはそんな事情も知らないですし、

 当時の支店長からは、

 「あのじいさんは参考にならないから真似するな。とにかく酒屋をまわれ」

 と言われていました。じいさんほって単独で廻れと。。。

 すごいOJTです。

 さらに悪い事に、本社の本部長からは私の営業中とかにいきなり電話をかけ

 てきて(当時はまだポケベルの公衆電話から折り返しですが・・・)

 「支店長の営業は古い。やみくもに酒屋をまわらず効率の良い営業をしろ」

 と言われたりしてました。

 本社の本部長とその当時の支店長の仲が悪かったのかもしれません。

 これも知らんがな。

 ダブルバインドというかトリプルバインド。

 今でこそ理不尽だなあと振り返って思いますが、時代もあったのかも知れま

 せん。まあ当時の私も今と変わらずこんな性格ですのでその理不尽を普通に

 受け入れ、特に気にする事なく日々営業活動をしていました。

 前月も書いたのですが、当時の私は全くやる気のない営業マンでしたので、

 月の中でも特に忙しくない時期は、夕方早くに家に帰ってセガサターン

 で遊んでました。

 夜中にゲームをやりすぎて、4年間の長崎生活で3回ほど寝坊の為家まで先輩

 に呼びに来てもらい、そのチャイムでやっと起きるという事もありました。

 要するに非常につまらなかったのです。

 活動内容と成果が連動しているように感じられなかったのです。

 やってもやらなくても同じだった(ような気がした)のでやりたくなかった

 のです。。。

 

 次号は長崎編最終回です。

 

(次号につづく。。。)

第7話:酒造メーカー時代

 日本酒メーカーで私はいくつかの貴重な経験をします。

 その経験が今の私を形作っているのだとすると、そのどれもが重要な出来事

 だったように思えてしまうので、人生とは不思議なものです。

 ここでは、いくつかそんな話をご紹介させていただければと思います。

 

 まず、大学卒業後、私は西宮の本社にある食品飲料部という部署に配属され

 ます。この部署では輸入ワインとか奈良漬を売っていました。

 入社初日の一発目にいきなり55歳くらいのおっさんに

 「通勤時のかばんが良すぎる」といちゃもんをつけられます。

 まあイギリスで買った茶色の真四角の本革のスーツケースだったので、今か

 ら思うとちょっとイキっていたのですが、無視っすね、おっさん無視。

 さらに入社1年目にいきなり労働組合の本社第一支部の支部長をさせられます。

 今思うと本社の社員さんたちのちょっとしたいやがらせのように、

 無理やり面倒な役をやらされたのかもしれません。

 毎月、何曜日かの夕方に組合のメンバーが集まって社内の労働改善に向けて

 いろいろ話をしていました。

 翌年の休日の案や来期の定期昇給の額や、ボーナスの割合などです。

 徐々に悪くなる会社の業績に対する労働組合の無力さを痛感しました。

 

 入社2年目に長崎に転勤になります。

 旅立つ日、空港には休日にも関わらず食品飲料部の社員が全員見送りにきて

 くれてました。当時はまだそんな時代でした。

 (そして私もこの頃はまだ平気でがんがん飛行機にのってました)

 24歳~27歳までの四年間、長崎で過ごします。

 当時の私は今では想像できないくらい、テキトーな若者でした。

 まず、日本酒自体が私が思っているより斜陽産業バリバリで、毎年毎年売り

 上げが落ちていき、会社もその状況に対する戦略もなく無策で、ほぼ精神論

 で、営業マンに「毎日酒屋を30件まわって注文をとってこい」しか言われて

 いませんでした。

 「数字が悪いのは酒屋をまわる回数が少ないからだ」と言われていましたが

 当然、そんなはずでもない事も分かっているけど、それに対する特に対案も

 なく、毎日少しずつ少しずつモチベーションが下がり続ける毎日を過ごして

 いました。ただ食べるためだけに。

 だから私は、斜陽産業で仕方なしに働く人の気持ちがよく分かります。

 同時に、その教訓があるので、斜陽産業では二度と働きたくないと強く思う

 のです。

 

 次号は長崎でのイケてない毎日な話です。

 

(次号につづく。。。)

第6話:営業時代に学んだ事

 今回は、少し趣向を変えて私が20代の時に学んだ事を紹介させてください。

 人に教えてもらったあれこれが、私の仕事の考え方のベースになっている事

 が多いです。

 

 1.人を見て法を説け

 長崎市の酒屋さんから「特選(昔の特級酒)の在庫の日付が製造日

 から3か月経ってしまって古くなったので返品を受けてほしい」と言われま

 した。当時私は25歳くらいだったでしょうか。

 当時の上司に相談したら、1本につきティッシュBOX1個つけるからそれで

 売ってもらえ。と言われ、そのままその事を酒屋さんに伝えたら、

 それから私は酒屋さんから出入り禁止をくらいました。

 私としては「え?なんで??」っていう感じで訳が分かりませんでした。

 酒屋さんとしては、日ごろ一生懸命、その銘柄の酒を売っているのだから、

 たまのお願いくらい素直に聞いてくれよ。という気持ちだったのだと思いま

 す。

 当時の取引先卸の支配人(卸のえらいさん)からは、

 「岩田君、人を見て法を説け。だよ」と言われました。

 ゴールをどこに設定するかが大事で、手段っていうのはそんなに問わなくて

 よい。という事を学びました。

 ゴールが「返品を受け取らない」なのであれば、私の言動で正しかったので

 しょう。

 ここでのゴールは「その酒屋さんには年間1本でも多く販売してもらう」

 なのであれば、ここは素直に返品を受けるべきところでした。

 

 2.徳をつむ。一生懸命仕事をする

 29歳くらいの時、鶴橋界隈の立ち飲み屋を牛耳って成功していた酒屋さんの

 社長にどうやったら儲かる事で出来るのかをストレートに聞いてみた事が

 ありました。

 当時90歳くらいのおじいさんは、謙遜して「そんなに儲かってなんかいま

 へん」とかっておっしゃるのかと思って聞いたのですが、意外にもド直球

 な質問にド直球な回答が返ってきました。

 

 「それは、徳を積むことですなあ」

 

 そうゆっくりとおっしゃいました。

 90歳くらいのじいさんが、ましてや成功している人が言うてる話なので、

 おそらく真理なのだろうなあと。。。

 

 又、先日当社のサプライヤーさんである卸さんの80歳くらいの専務と

 お話する機会があり、「私は、この卸会社に50年以上勤めていて、つぶれた得意

 先も成功した得意先も一杯みてきましたわなあ。」とおっしゃっていたので

 「成功する得意先はどんな得意先ですか」って、聞いてみたところ、

 「それは、一生懸命仕事をする事ですなあ」

 

 そうゆっくりとおっしゃいました。

 これもまた80歳くらいのじいさんが言うてる話なので、

 おそらくこれも真理なのだろうなあと。。。

 

 

(次号につづく。。。)